平安時代には、すでに「恋愛結婚」が成立していた!? 愛知(名古屋)・岐阜・三重の女性専用出張性感マッサージは「イヤシワン」

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「恋愛結婚」といえば、すごく新しいタイプの結婚のように思われがちですよね。しかし平安時代にはすでに「恋愛結婚」というべきカタチで男女が、それも身分の違いすら乗り越えて結婚する例もあったんです。

たとえば10世紀前半にかかれたとされる『蜻蛉日記(かげろうにっき)』の作者の藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)。彼女と藤原兼家は、恋愛結婚で結ばれているんです。

『蜻蛉日記』といえば、古文の授業では夫に浮気された妻が、嫉妬心もあらわに書いた作品と教わる方が多いかもしれません。その印象も間違ってはいないのですが、藤原兼家は高位の貴族の息子でありながら、いや、それだからこそ本当に好きな女性を(その身分を問わず)自分の妻にしたいと考えていました。恋愛結婚主義者なわけです。

そんな藤原兼家は、貴族の男性は「逆・玉の輿」ねらいの政略結婚しかしないという平安時代の常識からすれば、ずいぶんと「変人のお坊ちゃま」ということになりますよね。藤原道綱母も兼家からのアプローチがあまりにも非常識な気がして当初は拒否感をあらわにしていましたが、やがて彼からの粘り強いアプローチに折れ結婚を決意します。